田宮克哉さん逝去
[2011年11月5日最終更新]
創棋会、詰将棋パラダイスのホームページに田宮克哉さんの訃報。
田宮さんは大正12年生まれで88歳。壮棋会(現在の創棋会)や詰朗会などを創設、詰将棋のファングループ活動をリードしてきた。壮棋会は当初田宮さんが当時住んでいた朝霧駅の近くで行われていた。壮棋会作品集「あさぎり」の名前はこれにちなむもの。詰将棋の普及に尽力し、詰パラで現在も続いているヤング・デ・詰将棋を開設したのもこの方。将棋パズルや各種の将棋・ゲームにも活躍。「将棋パズル」を長年にわたり発行、「京都将棋」を考案するなど、精力的な活動を続けていた。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
2011年11月5日
- 田宮克哉さんの思い出 (風みどりの玉手箱)
「・・・ 私にとって田宮さんはまず「ヤン詰の担当者」だった。今はヤン詰は「中級」となっているが、田宮さんの作ったヤン詰は創作初心者にターゲットを絞った物だった。
投稿すると詳しく余詰指摘されて返ってくる。履歴が分かるように、その返送された投稿用紙の上に修正図を貼り付けるというルールだった記憶がある。 ・・・」
2011年10月20日
- 田宮克哉氏を偲んで たくぼん (Web Fairy Paradise 第40号(PDF))
「私は田宮さんとは面識はありませんが、将棋パズル誌に発表された氏の作品の数多くの作品をフェアリーデータベース用に入力しました。思ったのはよくこんなルールを思いつくものだなあということ。今回その変わったルールとその作品をちょっとだけ紹介してみたいと思います。【王様の仇討ち】 ・・・」
2011年10月5日
- 田宮克哉さんが亡くなられたことを知る (Problem Paradise(Twitter))
「田宮克哉さんが亡くなられたことを知る。むかしむかし、関西フ・グの会合が終わった後で、みんなでよく朝霧のお宅にお邪魔して、作品を見せ合ったものだ。上田さんもわたしも、まだ若かった頃の話。」
2011年10月4日
- また、本を買ってしまった、、 (まんようてい)
「整理中の資料の一番上に「将棋パズル42」が在った。田宮さんがアップしろと云っているような気がしたのでホームページにPDF化してアップしてみた。(10日程度で削除予定)。」
・ 将棋パズル42 (PDF) (萬葉亭 支店)
- 朝霧にて。 (詰将棋 駒の舞(別館))
「田宮克也さんの訃報が、複数のウエブサイトに掲載されています。多くの方と同様に、長くお会いしていませんでした。ご冥福をお祈りいたします。合掌。学生時代に、兵庫は朝霧で田宮さんが行った集まりに参加したのが、詰将棋愛好家と会う最初でした。 ・・・」
2011年10月1日
- 田宮克哉さん (報國挺身日記)
「・・・ ものすごく古い話になりますが、私もヤン詰出身で、作品の投稿を通して田宮克哉さんには大変お世話になりました。当時のヤン詰は入選するような好作だと返送されるという、詰パラの中で非常に特異なコーナーでした。今考えると、冗談としか思えないようなガラクタ作品を送っていたあの頃が一番楽しかった気がします。ご冥福をお祈りいたします。」
2011年9月30日
- 田宮克哉さん逝去 (全詰連会長のブログ)
「・・・ 田宮さんは関西詰将棋ファングループを立ち上げたのは昭和30年代ですか。詰将棋の会合の先駆けと言ってもいいでしょう。その関西詰フグが、壮棋会から創棋会となったのは有名な話ですね。確か明石で子供の詰将棋を募集し、あの山本昭一さんを発掘し育てたのではなかったでしょうか。その後、田宮氏は関東圏に引っ越しをされました。三鷹では詰将棋大会(パラ2011・4月号サロン参照)を開催し、さらに詰朗会を立ち上げました。 ・・・」
2011年9月29日
- 田宮さん (たくぼんの解図日記)
「田宮さんが亡くなられたとの事。心よりご冥福をお祈りいたします。面識はないのですが、フェアリーデータベース入力作業で、「将棋パズル」内に田宮館なるコーナーがあり、一字一字丁寧に書かれた自筆を見るに付け詰将棋(パズル)に対する愛情を感じておりました。将棋パズルは71号で終わっているのですが、71号に掲載された作品の解答発表がなされないままとなっており、この解答入力をどうしようか?と・・・・ 田宮さんに確認しようかなあと考えていたんですがそれも出来なくなりました。変わったルールも多く作られ、「ゆるふん詰め」、「美幸詰め」、「やわら詰め」、「王様の仇討ち」など聞いただけでは何の事か分からないものも多くありました。いずれWFPで書いてみたいと思います。合掌」
2011年9月28日
- 田宮克哉さんを偲ぶ (将棋雑記)
「私が田宮さんと初めてお会いしたのは、昭和54年3月(?)の詰朗会でした。当時私は中学1年生で、当然誰も知りませんでした。その私に親切にしていただいたのは、田宮さんと森田正司さんでした。 ・・・ 有名な作品は他の方も紹介されるでしょうから、私は知られていない作品を紹介したいと思います。 ・・・ 私が全国の会合に出ているのも、会合を主催するまでの根性は無いけれども、少しでも田宮さんのような名伯楽に近づきたいが為でもあります。繰り返しますが、お亡くなりになる前に一度もお会い出来なかったのは本当に残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。」
- アラカルト (ストンリバーの日記)
「詰パラ関係者の訃報
詰パラHPで、創棋会の創始者でもある田宮克哉氏の訃報が載っていた。享年88歳。この方は現在の詰パラの誌面にある「ヤン詰」の初代担当者でもある。(現在のヤン詰はその頃とは似ても似つかぬコーナーになってしまっているが。)私はこのヤン詰の3代目の担当者を務め、8年6カ月の間、担当した。田宮氏とはお会いしたことはなかったが、いつの頃からか、年賀状のやり取りを続けていた時期があった。詰将棋に限らず、とにかくパズル好きというイメージが強い方であった。ご冥福をお祈りしたい。」
2011年9月27日
- 創棋会
「「関西詰将棋ファングループ」の創設者で「壮棋会」の生みの親である田宮克哉さん(88歳)が亡くなられました。会員一同、心からお悔やみ申し上げます。」
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コメント
目の前に住んでいました。田宮塾には子どもがいつもいっぱい!頭を使う遊びを教えてもらったり
運動会では、親はカメラ要らず。田宮さんがみんな撮ってくれました。入学卒業成人式と節目節目は、記念撮影
奥さまは、働いてる私に京都風のおかずをよくくださいました。
パパは、遊んでもらってるのよ!といつもおっしゃってました。
入院されてからも、亡くなられてからも
お宅にお邪魔してました。
パパはピンクの花が好きだったの!と。
ほんとに、地域の子育てを応援してくれたご夫妻に、いつも感謝してます。
ありがとうございました
投稿: 南部俊江 | 2021.01.23 15:48